前回は、米国企業が元気を取り戻したきっかけが、ネットワークコミュニケーションにあることを述べた。今回はもう少し視点を変えて、日本との比較で書いてみたい。
いっていた。それがこのところ、“グローバル”“グローバル”とうるさい。「グローバルスタンダードによれば……」ならまだしも、「グローバルな人間でなければ役に立たない」というような言い方が横行する雰囲気にはいささか疑問を感じる。そもそも「グローバルな人間」なんていう言い方はあるのだろうか。「グローバリズムはアメリカの陰謀だ」などというまことしやかな話も聞くが、このグローバリズムとは一体何のことをいっているのだろうか。
米国にとって製造業の弱体化は、80年代になっていよいよ耐え難いものになっていく。そこで彼らは、日本やドイツを徹底的に調べた結果、製造効率が高い理由が情報共有とコミュニケーションのよさにあることを知ったのである。考えてみれば、日本の下請け構造、人事運営、赤提灯の会話などは情報共有やコミュニケーションのプロセスと考えられるのである。
このとき彼らは、日本人のようなやり方はとてもできないと考える。だがそこであきらめない。だから、インターネット技術を使ってやろうとしたのである。このときから、イントラネット、リエンジニアリング、CALSなど急に騒がしくなり、同時に米国の企業は元気を取り戻していったのである。さらに、この過程で米国流のビジョン、つまり実行するためのビジョンがきわめて有効に働いているのである。
ことの始まりは、インターネット技術で情報共有とコミュニケーションを積極的に行なおうということなのだが、これは米国文化らしく、世界をつなぐ情報インフラを構築しようということに発展していく。
そうなれば、情報機器が世界のどこからでもつながれなければならない。そこで、グローバルスタンダードが必要になるのである。インターナショナルのように、ローカルなものを認めたうえでそれらをつなごうというのではないのだ。日本の強みだった情報共有とコミュニケーションが、全く違うやり方と世界的規模で置き換えられようとしているのだから、われわれ日本人にとって気分がよくないことがいろいろ起こる。
しかしながら、いま起こっているグローバライゼーションは、ネットワーク時代の資本主義システムのなかで、企業を効率よく動かすための標準化なのだ。全てを標準化する必要など毛頭ないが、感情に流されることなく、競争力確保のために必要な標準化はしなければならないだろう。