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ゆらぎとシステム

僕はこれからの組織はどうあるべきなのかを主な課題として考えているのですが、その時、情報の共有による横の連携と裁量権の委譲に加えて「自己変革」が出来る人や組織の構造が必要だと考えています。そんな時、今田さんの「意味の文明論」を読ませていただいて触発され、文章を纏めてみた。まづは今田さんの御著書より;

意味の文明の特徴は「遊び」にある。近代の機能文明は、「聖」なる神の摂理を支配的原理とした中世の構造文明を脱構築し、利益や成果を志向した「俗」の論理を浸透させてきた。しかし、来るべき意味の文明は、利害や打算に汚染された所有関心から生き方や生活様式など存在関心への地滑り現象を受け止める文明である。それは所有という「俗」の論理に代えて(加えて)存在にかかわる《遊の論理》を、社会の仕組みに注入することである。意味の動きはその遊び性を特徴とする。機能は定められた目的に対する貢献という視点から動きをコントロールするため、また構造はルールによって活動を規制するため、自在な働きは制約される。構造や機能から独立した意味の本質は、差異のリフレキシヴな運動、すなわちシニフィアンの自己指示的な動きにあり、遊び性を内包したものである。

---今田高俊 意味の文明学序説 東京大学出版会

今田さんの話は生きるということ一般に述べられていますが、僕等の職場でそれを考えると、今までの物質社会では、あまり難しく考えずに、とにかく科学技術を駆使してよい物を作っている事で社会に役に立っていると感じることが出来ていたのですが、どうもそこがそうでもなくなって、これからは何のために作っているのかを自分達の存在理由を軸に考え直さねばならなくなったということだと思います。

今田さんは「構造」を規制として扱っておられる。今までの組織の構造は効率を求めた縦割り組織であり、確かに構造は規制として働が、そのような組織は外から見れば独りよがりの組織になり、これから多様な価値観を持つ顧客の要求には対応できない。そこでその構造にいってみれば横の構造、つまり水平連携の構造を入れねばならないのだと思うのですが、それが「遊び」に相当するし顧客サービスと通じると思います。組織としては縦割りの「構造」を排除するのではなく、「遊び」があらかじめ正統な位置を得られるような「構造」を必要とする時代になったのだと考えます。そのような構造を持った組織や社会に住む人には遊びがみとめられ、それが余裕となって多様性のあるしとやかな世界を作ってゆくのではないでしょうか。

<条理空間の脱分節化による生成変化>
条理空間の脱分節化による生成変化

条理空間は法律とか習慣とか常識とかで規定されている僕等の日常の社会空間で、個人の自由の欲求に対して抑制として働きます。そこで当然条理空間と自由への欲求の間では確執が起こります。それが表面にでてきたのが「ゆらぎ」です。最近の子供達の環境は、あれをしなければいけない、これをしなければいけないとこの部分が強くなりすぎていて、その結果登校拒否、引きこもりが起こったり、それが子供だけではなく大人にもきていて、登社拒否みたいな現象が出てきています。それらはゆらぎの現象の一部です。自分が良いと思ったことをやりたいといったような、個人の自由への志向は誰もが自然にもっているものです。なのでこの揺らぎは、実は社会の変革を求める人間の声なのだとして受け止める必要があります。そして我々の日常を規定している条理空間をその声に応えて変えねばならないということになります。それが社会的な流れとして起こるためには、その声が皆の納得する形でイメージされてゆかなければなりません。そして我々の持つ条理空間を取り巻く物理的環境、心的環境、経済的環境、政治的環境等々をその流れに沿ってもう一度見直し、それに必要な変更を加えねばなりません。戦後にスタートして今まで我々が作ってきた条理空間は「とりあえずみんなが食べられるようになろう、そのためには個人は多少の不便を耐えしのぐ」を価値の中心にすえて作られきたと思います。今我々の見るゆらぎは多分それでは満足できないことをあらわしているように見受けられます。そうだとすると何を我々は欲しているのでしょうか。僕は、今ある条理空間は人を「国民」という全体概念で扱っていると考えます。そうすると、皆に迷惑になることはしてはいけない、それがこうじて、皆と違ったことをしてはいけないという一般概念が成立して、人がほんとにやりたいことが出来ないとう条理空間が成立します。よく言われる出る釘は打たれる、というのはその変形でしょう。そのような空間を脱して、これからは「個人」を大事にしながら全体の調和を保つことのできる条理空間を作らねばならないと思います。その観点で周りを見直すと、いろいろ変えなければならないし、やれねばならないことが僕等皆にあるのではないでしょうか。そういうことをいおうとしたのがこの図です。

ところでここでは「ゆらぎ」をポジティブにとらえていますが、個別にはそれを個人のわがままでやっている人もいます。そこをしっかり区別してみれることが当然大事です。「自分のやりたいことができる社会」を作るには、自分のやりたいことを主張することを軸にするのではなく「他の人がやりたいことをやらせてあげる」ことを軸にするのが全体の調和が同時に行われるので良いのではないかと思います。そうすれば結果的に自分もやりたいことが出来る。そのためには自分と違う存在である他者を排除せずに、自分の内に取り込める度量、他者を生きることが出来ることが必要です。そのことをいいたいのが三番目の図です。

<二次モデルによる自己の生成変化>
二次モデルによる自己の生成変化

残念ながら自分は他者にはなりえません。なったつもりになれることしかできません。しかし一方他者を生きるということは他者そのものになるということですので永遠に出来るわけがありません。貴重なのはそうする努力なのだと思います。この努力の中には上に述べたのとは別の「ゆらぎ」が生じます。そこに良いコミュニケーションと美しさが生まれるのではないでしょうか。

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