僕らは他人が不幸な目にあっているときに自分だけ幸福になれるだろうか。家族とか仲間を考えれば分かるが、他の人が不幸な目にあっているときにいくら良いことがあっても自分ひとりだけ幸福感を持つことは出来ないだろう。それを一般化すれば、皆を幸福にすることとそんな中で自分が幸福になることの両輪で社会が動かねばならない。一方、戦後の日本の状況のように焼け野原で、衣食住にも事欠く状況では、個人の幸福はひとまず棚上げにして、何とか供給サイドを効率よく動かし衣食住を満足させることが必要だった。国民もそれに異論はないので、自分のことは我慢して皆に協力する体制が出来る。そのような中では国家の政策も国民個々の要望を聞くのではなく、皆が持っている明らかな願いを供給サイドを強化することで成就する政策を採る事となる。それによって国民全体の底上げが行われ、国民も満足であった。そのような日本のシステムでは組織は下請け孫受けのように垂直構造をとりながら一種の共同体のように一心同体で動き、効率よく皆が必要なものを供給することが出来た。その結果奇跡といわれる経済復興を遂げたのである。しかしながら、1980年代に入ると、国民全体の経済状態が戦後の状況を脱して、衣食住は満ち足りてきた。それにもかかわらず供給強化のシステムが動き続けてきたために供給が過剰になり、外に向けてはトレード摩擦を激化し、内に向けては不執拗な効率化による供給側の理論の押し付けが始まり、家庭の崩壊や地方の崩壊、自然の崩壊を招くにいたり、国民の生活感情にあわなくなってきた。そのようなシステムの現況を示したのが左の図です。
そのような状況は日本に極端に出ているものの、世界の先進国でも同様に起こっていることであった。そのようなときにITが登場し、インターネットの時代を作り上げた。ITで最も重要なことは今まで政府とか名の在る企業にぶらさがっていなければ取れなかった情報が、そこら辺の誰でも取れ、またそれを誰とでも話し合うことが出来るようになったということである。2割の存在が8割の収入をあたえるという、いわゆる2-8理論の世界では、ロングテールといわれている8割の存在は2割の存在に従属せねばならなかったのが、そのロングテールが2割に従属する必要がなくなったということだ。今世界的に起こっている現象はいろいろな場面で今まで従属関係にあったものがそこから脱却して今までの権威に対して対抗軸を作りはじめたということである。それを日本の国家システムにあてはめて考えてみると、戦後のシステムは家族を中心にした生活空間であるコミュニティーを産業社会に対して従属するかたちで置いて、衣食住を効率よく確保しようとするシステムであった。供給が国民の需要においつかない場合にはこの従属関係はコミュニティーにおいて不満のないものであったが、閾値をこえて、供給が過剰になると国民側はそのシステムの持つ従属関係を強く意識することになる。地元でさえ必要を感じない道路を建設するというようなことはその典型である。そのような状況では、自分達の感覚にあわない組織をボイコットしたい感情がコミュニティーに起こってくるので、国民が何を欲しているのか勝手に考えて押し付けるのではなく、国民の感情をもっと直接的なかたちでくみ上げるように組織の運営を変える必要性が生じている。今までのように例えば経団連を通して供給側を強化するだけの政府の政策では国民感情を吸い上げることは出来ない。近頃起こっている政治シーンはそんな様子を如実に表しているのではないだろうか。これからの政策や経営は、国民個人個人の気持ちを直接的に意識して、まじめに生活コミュニティーに貢献して働こうとしている現場の人を強化するように、コミュニティーに対して開かれた文化にする必要がある。そのような政策態度や組織文化の転換によって、今までの効率化による画一化へ向けた社会構築ベクトルから脱して、多様性を育む構築ベクトルへと転換することにより、表づらではないベンチャーの育成や地方の繁栄を行わねば、日本経済丸は内部崩壊により沈没することになるのではないだろうか。そのような新しいシステムのフレームを描いたのが右側の図である。