マウスの発明者として良く知られているD・エンゲルバート博士は1950年代の青年時代から今のインターネットのイメージを持って情報技術を考えられていたようで、そのころから「情報技術は人がやっていることを機械化するのではなく、人の頭脳を補強・補完(Augmentation of human intellectual capability)する道具として開発せねばならない」と言い続けてこられました。そして当時ほとんど誰にも理解されなかったインターネットの世界が今や現実となりました。実際にインターネットの世界に接してみて、確かに自分の考えをまとめるのに役立つと感じる経験をもたれた方は多いと思います。このメカニズムはこれからの情報装置と人間との係わり合いを決定的に違ったものにします。
我々は日々の生活や会社での仕事をするめにいろいろな行為を行います。そのような行為は連続的に行われる「決定」の結果と考えることができると思います。その「決定」には、体が反射的に行うもの、常識として行う暗黙知的なもの、規則として行うもの、仮説モデルをたてて行う意識的なもの、というようにいろいろなカテゴリーのものがあります。組織においては、インターネット技術が現れる以前にはそのような「決定」は会議を中心に行われて、情報システムが直接関与することは出来ませんでしたし、そのような試みはことごとく失敗してきました。その原因は情報システムが経理とか給与とか販売管理等々の機能を機械化するために作られていて、決定に必要な全体像は人に頼ってやるしかなかったことにありました。
インターネット技術はいろいろな人の意見とか、規則とか、指示とか、企業の動きの源泉である伝票入力とかを、その事象発生時点でリアルタイムに入力が出来、入力したとたんに(少なくとも技術的には)世界中の誰とでも瞬時にシェアすることを可能にしました。つまり「決定」に必要な情報をいつでも必要な人が端末の画面のボタンをクリックするだけで見ることができるようになりました。また、必要とあればメール等オンラインでのリアルタイムコミュニケーションも行うことができます。これは情報環境がエンゲルバート博士の言われてきたように頭の補完としてリアルタイムで動くようになったということです。図1はその様子をイメージするために描いたものです。
- 「決定」に必要な情報を決定者がいつでも見られるようにリアルタイムでネットに載せること、
- 決定者は自分の役割遂行のための「決定」を行う心の準備をしておいて、何か起こったときにいつでも判断をくだせるようにしておくこと、
エンゲルバート博士は上で述べた(2)、つまり「決定」を行うための構造をABCモデルとして提示されている、と私は解釈しています。このABCモデルは、人の頭脳の中で行う決定メカニズムのみならず、組織における決定メカニズムにも共通して使うことが出来ると思います。
われわれが何かするとき、意識するしないは別として、その行動を支える決断がその背後に必ずあります。例えば会社で製品の開発を担当しているときに、「この製品は作れば売れるのだ」(実は本当かどうかは分からなくても)と割り切りをつける(断定してしまう)事によって製品の開発に具体的に取り掛かることが出来ます。行動にはこの例のように明示的に意識されているものもあるし、朝になったら朝食を食べるというように習慣として意識しないで行われるものもあります。そのように我々の行動を理由つけている考えや価値判断のことを、行動を支える「フレームワーク」ということにします。人に言われたからやっているのだという人の場合でも「いわれたからやる」というフレームワークの中で行動が行われるということです。その時の行動をエンゲルバートは「A」アクティビティと名づけています。我々が日常やっていることがこれにあたります。我々は家庭での行動の仕方と職場での行動の仕方が違うといったように、時や場所や場合によって行動のフレームワークを替えて行動しています。それと同時に今やっていること(「A])をもっとうまくやれないか、とも考えます。いわゆる「改良」作業です。この作業のことをエンゲルバートは「B]アクティビティと呼んでいます。我々の日常の行動は「フレームワーク」のなかで「A」あるいは「B」として行っている、というのがエンゲルバート博士のモデルのうちの半分です。
今の話を逆さにみると、我々が通常行っていることは知らず知らずのうちに考えのフレームワークを持っているということになります。このフレームワークは 社会習慣だとか規則だとか自分の意識的な割り切りとかによって作られた仮説として成り立っているので、その中で我々のとる行動が普遍性をもって正しいとか、社会的な付加価値を持っているかどうかを保障するものではありません。作ったものが全然売れない、なんていうのは「フレームワーク」が外の環境と不整合だったことになります。
日本の社会は(狭い意味で)戦後の焼け野原から社会創りがスタートして現在に至っています。その日本の社会は「欧米の進んでいる技術を使って物を作り、それを輸出して外貨を稼ぎ製造立国になる」というフレームワークをもっていたと思います。そのフレームワークを皆が理解して国民のベクトルが合ったので、奇跡といわれる経済発展をしたと思うのですが、その過程で我々は「フレームワーク」の存在をあまり意識しなくなり、ただ一生懸命「物」を作っていれば良いのだというように、エンゲルバート博士のいう「A]と「B]の空間のみで物事の意味付けを行うようになってしまったのではないでしょうか。要りもしないビルや道路を作って当たり前に感じるのはその結果のように思えます。この現象は日本に顕著に現れているように見えるのですが、なにも日本に限ったことではなく、世界の先進国といわれている国々でも同じ構造で起こっていると思います。
今日、良い技術で良い物を作っていれば社会に役立っているのだと感じられる時代が終り、技術の持つ負の側面が問題になりだしています。そして社会そのものをどのようにせねばならないかをもっと直接的に日常の問題として考えながら行動しなければならない時代になりました。新しい社会つくりをイメージしながら技術を応用せねばならなくなったのです。今まであまりに当然と思って意識して考えなかった、「物が豊かになれば社会も豊かになる」という我々の行動のフレームワーク自体を意識上に呼び戻して再考する必要がある時代となったのです。エンゲルバート博士はそのための行動を「C]アクティビティと呼んでいます。「C]は行動「A,B]を支える「フレームワーク」自体を考え直すための思考作業です。上の例で言えば、こんな製品をほんとに作っていてよいのか、とかこの命令に従って動いていてよいのか、とかを考え直す作業です。そのためには現行「フレームワーク」の外の世界がどうなっているのかを観察してその状況を知らねばなりません。この、「フレームワークの外側はこうなっているのだ」という考えや価値観、つまりメタフレームワークのことを「スーパーフレームワーク」と呼ぶことにします。この「スーパーフレームワーク」も環境に関する仮説ですが、それを常に検証しながら我々の日常行動のフレームワークを変更してゆくことが必要です。このスーパーフレームワークを仮説としてつくり、その検証を行う作業が「C]です。この作業は過去にも当然あったのですが、それへの優先度が低くなってしまい、日常の作業の中に埋没してしまっているのが現状だと思います。エンゲルバート博士はそれを意識化した作業にせねばならないのだ、といわれてできたのがABCモデルだと思います。それをイメージ化したのが図2です。これは画期的なことであると同時に、まさに我々の今の閉塞感を脱却するために必要なことだと私は考えます。
NICとは
我々を取り巻く環境(全体像)を把握するために、人はいろいろなことをああでもないこうでもない、と頭のなかで試行錯誤をしながら仮設を作ってゆきます。その過程は、いろいろ違った意見を持った内なる他人が意見交換しながら仮説を作りだししているといえます。そうであればほんとに他の人を巻き込んで異なった意見を交換すればよりよい全体像に関する仮説がより早くできることになります。これは、新しい発見がブレーンストーム的な会話から出てくるという我々の経験から実感できることです。そして今のようにネットで自由に意見交換できる時代にはネット上のブレーンストームが有効であるということができます。それをやるコミュニティーをエンゲルバート博士はNIC(Networked Improvenment Community)と呼んでいます。ブレーンストームの参加者はその話題によって集まります。それが自分の会社をどうよくするかであれば社内の人間が、地球環境をどうするかということであれば世界から人が集まります。ブレーンストームの果たそうとする目的によって異なるコミュニティーができることになります。いずれにしても何か今よりもよいフレームワークを作り出すことがNICの目的で、「ネットワーク化されたコミュニティー」といわないで「ネットワーク化された改善コミュニティー」と呼ぶ理由はそこにあります。より良い「スーパーフレームワーク」を考え出して、それにより我々日常の行動の持つ「フレームワーク」を見直そう、そしてそれをネットでやろう、というのがNICです。
参考文献