title logo
to Next Pageto Home
人と社会システム
-エンゲルバーとトルーマン-
to English page Japanese page

fig1

人は心(意識)と体からなっていているが、その存在全体を統一しているのは意識なので、全て自分がコントロールしていると感じながら生きている。ところが人が何かの動作を行おうと意識上で決断する0.5秒前にはすでに脳波の変化が見られるとのベンジャミン・リベットという人の報告があるらしい。つまり意識的な決定と思われるときでもそれはすでに体のどこかでくだされていた決定を、事後的に自身のものであると錯覚することにより意識は固体を統一する。意識はたとえ暗黙知や筋肉がやってしまったことでも後付で自分がやったとするのだ。確かに我々の行動には意識的にやるものもあるが、反射的に体がやってしまうものや無意識でやってしまうものがあることを考えると納得できる話である。意識は体と絡み合いながら常時きめ細かく何をどう動かすかを決定し、その決定の連続体として個を存在させるのだ。また意識は身体に影響を受けながら存在しているのだが、全体を制御するのも意識なので、全体は俺が統一しているのだ、というメタ意識を持っている。

一方、マイケル・ポランニーによると、形式知で考えられた意識は暗黙知や身体知の一部として埋め込まれてゆき、考えて意識的にやっていたことも次第に習慣として無意識にやったり、反射的な行動になったりするという。若い頃に絵が上手だった老人が、頭はボケても絵をうまく描くのは身体がそれを覚えているとしか思えず、これもうなずける。このベクトルは先に述べた意識が身体から影響を受けるベクトルとは逆で、意識が暗黙知や身体知を制御するように逆に作用するべクトルである。ということは形式知、暗黙知、身体知は双方向に循環して影響を与えながら時々刻々と固体の行動を決定しているといえる。

さて、固体の内は上に述べたようなことだが、一方我々はやりたいと思ってもやれないということが山ほどあるし、場の雰囲気や相手に合わせて思ってもいないことを言ってしまったり、言い方を変えたりすることはよくある。もっと制度的に言えば我々は社会の習慣やルールに縛られた社会的な言葉の流れに影響されて存在している。つまり自分の意識と言えども完全に自分自身で統制できるものではなく、いつのまにか口から勝手にこぼれて人から人へと渡っていく。そしてさらにはこういった言葉の流れというのは、単に口から発せられるものではなく、独り言や頭の中での思考を占拠してしまうこともある。このような言葉の流れは意識がみずから発したものではなくて、どこかから流れてきて自分の中を通り過ぎていったものにすぎないと考えられるのだが、意識はここでも錯覚を起こさせて、それを自分の言葉だと考えることにより固体の統一を保つ。全てを自分で制御していると仮定した固体を社会のエレメントとした社会のモデル化はうまく動かなくなってきていて、それでは説明が出来ない現象が多発しだしている。固体に対する社会からの影響と、固体の自律意識とを別なものとして分離した上での社会のモデル化が必要になってきているのだ。

ルーマンは社会システムの要素をコミュニケーションとすることによってその辺をモデル化しようとしている。すなわち個の意識は分化した諸社会システムにコミュニケーションを通して、言って見れば縦割りで接続され、それによって持ち込まれる意識群のメルティングポットとなる。そのメルティングポットに入れられた意識群を、今度は横断して機能する固体の合成的領域として眺め直し、個体の存在論としての統一を図るのが個の意識の役目となる。そこで眺め直された意識群は、社会へ接続された要素としての意識におこる変調となって現れ、それが今度は社会に対する発信という形で社会システムに影響をもたらす、という形で個が社会システムに参加するのだ。

このようにしてルーマンの社会システムは固体と接続されるのだが、その固体の方の統一論としてエンゲルバートのABCモデルが有効であると考えている。組織は物理的な人で構成されるのでその行動様式は固体と同じ入れ子構造を持つ。従ってこのABCモデルは組織論モデルとしても有効と考えられる。

ここにまとめたことは、東大社会学系大学院に在学中(2005年7月時点)の谷島カンタさんとの会話に触発されてまとめたもので、谷島さんに感謝します。

pagetop